花筐公園の歴史


大正時代末期頃の花筐公園

 

 

弘化元年(1844年)に粟田部の関甚兵衛が、大和国吉野より数十本の桜を現在地に移植し「桜ケ丘」と呼んだのが花筐公園の始まりといわれ、福井県下で最も古い公園と言われています。

 

 しかし、明治28年(1895年)7月30日の台風は県下全域に未曽有の惨害をもたらし、粟田部でも岡太神社本殿背後の山崩れにより本殿などが倒壊しました。

 

 その後、神社再建のため神社用地の整地を行うとともに、桜を植えて現在の上段(現在の本殿付近)が完成し、初期の花筐公園の姿となり、その後もいく度かの改良工事を経て、昭和初期には県下屈指の桜の名所となりました。

 

 

 花見時には連日1,000名以上の花見客で賑わいましたが、第二次大戦中は桜は伐り倒されて食糧生産のため畑と変りました。

 

 終戦後、花筐公園を元の姿にという地元民の熱意ある奉仕作業で復旧の努力により実り公園の体栽が整って、昭和37年には都市公園整備計画の指定を受けました。

  

 その後も、第1次5ヶ年整備事業・昭和49年には第2次5ヶ年整備事業により公園の環境整備に努め、「風致公園」としての指定を受けました。

  

 このように花筐公園は、現在まで「花筐公園保勝会」を中心に地区民により公園の保全活動を継続的に行うとともに「花筐公園を愛する日」を設け公園内の植樹・清掃奉仕作業などに大勢の住民が参加しています。